カラダにも協力してもらう

何かをする時に、カラダが元気じゃなかったらしたいこともできなくなってしまう。

だけど、普段の生活ではカラダを労って大事にしている人ってどれくらいいるんだろう。

普段の仕事や、日常生活の中で疲れや痛みを無視してしまってないかな??

嫌なことや、やりたくないこと、

に対して、やらなきゃって頭は考えてしまう。

これをしなきゃ、だめなんだって。

その時、カラダは痛みを感じていたり、だるさを感じていたり、

不快感を覚えているのに、カラダの声に耳を傾けることはとっても少ない気がする。

カラダも意志をもっていて、sosを自分に対して出しているのに、気づいてあげられないってのは、なんかちょっと寂しい気がする。

誰かがsos出している時は、助けようと必死になるのに、力になろうとしてあげるんだから、

自分のsosにも向き合って欲しい。

頭で封じ込めることは簡単だし、考えなくて良くなるからちょっとだけ楽になるんだけど、

カラダをこき使ってしまったら、もっともっと大切な時に、使い物にならなくなっちゃうよ。

無理するのはとっても簡単なこと。

調整しながら、長い視点で積み重ねていく方がよっぽど難しいのかもしれない。

たまには、カラダの声に耳を傾けて、今まで無視してきてごめんねって謝ってみると、これだけ無理させてきて、それでも頑張ってくれているカラダに感謝してみると、

なにかちょっと楽しいことが起こるかもしれない。

誰のために?

今、自分を大切にって言葉をよく聞くし、

自分のやりたいことを実現させよう!人に構っている暇はない!

とか、そんな印象の言葉を耳にすることが多い。

自分のやりたいことを実現させて、キラキラしている人が増えていっている気がする。

その言葉をみたときは、自分もそうしたい。人に振り回されるような人生はまっぴらだ!自分の人生を生きるんだわっしょい!

余計なやつに構っている暇なんてないぜ!!!!!と思っていた。

自分のなすべきことを考えて、そのために時間を集中させて、自分の何かをなしとげようと、いろんなことをしている吾輩、かっちょ良いくらいに思ってた。

自分を高めるためにと、何かに熱中しては、体調崩すくらいまで打ち込んで、つかれちゃったり、

本読んだり、勉強したり、運動したりして自分を高めようとしている自分は偉いぞ!!とか、平気で思ってた。

けど、なんか違うような気がしながらも、SNSや本を読むとそれが良さそうに見えてきて、今日の積み上げとか、何かのために、今日も自分は何かをやりましたよ。みたいな。

憧れた部分もあるし、自分もできるんじゃないかってもがいてみたりした。

疲れたら、突き進むばかりじゃなくて、時には止まって考えることも必要だよとか。そんな優しい言葉に救われたりしてみた。

ちょっと待とう。

自分にないもの、憧れるもの、本に書いてあること、人からの言葉、みたもの、聞いたもの。それ自体は、誰かが作ったことであって、同じように自分に当てはまるものではない。

追いかければ追いかけるほど、同じような人間や雰囲気になるだけで、

誰かの人生を辿っているようなものなんじゃないかな?

自分の人生を使って、誰かの人生を辿ることは果たして楽しいのだろうか。ヒントを得て、そこから、自分なりの何かを見つけるのであればいいかもしれないけど、誰かの成し遂げたこと、誰かがやろうとしていることを自分もやってもいいけど、それは、他の人にやってもらえばいいきがする。

本に書いてあることって、自分よりも凄い人がこんなことを書いているから、そのようにできない自分は情けないんだとか、こんなふうにがんばってみようとか、書いてある言葉に救われることもあるけど、自分の核になることは少ないかもしれない。

自分の人生の主役は自分だから、自分だけの幸せを追い求める方向性を間違えないようにしないと、自分を苦しめることだってある。

自分のために、海外旅行したり、旅したり、何かを学んだり、英語話せるようになったり。自分の希少価値を高めることによって、市場から求められるような人物になるのはとっても立派!

それを選ぶもよし、

誰かの幸せのために自分の時間を使うもよし。

そばにいるだけで、安心感を与えることができたり、

どんな時でも、笑顔で接することができるでもいいし、

気づかれないように誰かに優しくするでもいいし、

車で譲でもいいし、なんでもいい。

自分の時間が、誰かの幸せに少しでも携わったとき、心はポカポカになる。

自分の目標を成し遂げた時、心はぐつぐつと盛り上がる。

誰かの人生に彩りを与えるために、

勉強したり、本を読んだり、運動したり、何かを極めたり。

そんなふうに考えてみると、自分だけのために何かを頑張るよりも、

自分が頑張った先に、誰かの笑顔をみれる方がなんかほんの少しだけ、

気持ちがいいのかもしれない。

過去の自分を振り返ることはちょっぴり恥ずかしいけど、

今、こうやって振り替えられることが、財産なのかもしれない。

考えさせられる存在

自分とは異質の存在はどうしても、拒んでしまいたくなる。

なんでそんなこと考えるのかわからないし、

どうして、そんなことをするのかもわからないし。

できるだけ、自分の人生から排除したくなって、

できるだけ、自分に近い存在を求めてしまう。

自分に近い人が多いと、安心感があるし、居心地もいい。

けど、ふと、居心地がいいが故に考えることをやめてしまうことがある。

このままでいいかなーとか。気楽だなーって。

異質な存在は、いやでも考えてしまう。それは、チャンスなのかもしれない。

自分にはできない、自分が持っていないなにか凄いことがその先にあるかもしれない。

+の存在から学ぶことは簡単だし、ーを排除することもやろうと思えばできる。

ーを自分の中から消してしまうことは、ある意味、自分の新しい気づきを捨ててしまうことになるかもしれない。

ポジティブシンキングとか、+思考とかたくさん言葉があるけど、ネガティブや、ーから学ぶことができなければ、人生の半分以上を捨てて生きることになるんじゃないかな。

一時的な心の平和を取り戻すことも必要だし、健康な心がないと、辛いこともたくさんあるけど、それでも一見、ネガティブやーのことの方が人生にとってはいいことが詰まった宝箱のような気がする。

断捨離も必要だけど、何でもかんでも捨てないように。


オンライン飲み会

うん、自由でいい感じ。

好きなことしながら、好きなタイミングで話に入り込んで

それ以外は自分のしたいことをしながら。

みんなの近況もわかるし、自分の好きなことできるし。

何よりも、自分の家だから疲れたらそのまま寝れることがまた最高なんじゃないかな。

オンライン飲み会をしてみて、人と人は話したりしないとストレスがたまるんだろうなーっと。

今まで当たり前のように、話していたことがなくなって、

当たり前のようにできていたことができなくなってしまって、たくさんストレスを溜めている部分もあるみたい。

オンラインで話を聞いてもらえるだけでも、信頼を積み重ねていけばビジネスになるのかもしれない。

人と話すことって、当たり前のようだけど、これからは当たり前じゃなくなるから、新しい価値が生まれるかもしれない。

今、当たり前と思っていることがどんどんなくなっていって、

新しい価値が生まれていって。

意外と、オンライン飲み会では会社の愚痴とか、そういうのあんまり出てこんなーって

新しい発見かもしれん。

マイナスなこととか、そう言うのってオンラインではなんとなく言いにくいのかな???

会社の愚痴とか、仕事の愚痴とか一番、不要な時間はオンラインで解決できるのかもしれない。

楽しい時間に、自分の時間をコミットする。ただそれだけ。

いっぱい考えることじゃ無い。これかなっておもったら、あとは腹をくくるだけ。

1人で居たくなる

誰かといる時間は好きだし、そばに誰かいて欲しいって気持ちにはなるんだけど、1人で居たくなる。

寂しいから、誰かと一緒にいるのか?自分の足りないものを誰かで埋め合わせるために、誰かと一緒にいるのかな??

音?リズム?空気?違和感とまでは言わないけど、どこか心から安らげなくなってしまう。

その人を嫌いではないし、好きなんだけど、好きな人でさえこんな感情になってしまう。

好きな音楽を好きなだけ聞いて、歌って、のんびりして、

食べたいときにご飯食べて、眠くなったら寝て。

誰かがいると、こうしたほうが過ごしやすいかなとか、

自分ばかり良い気持ちになったらいけないかなとか。

そんなことを考えてしまう。

どうやって、人は仲を深めていくんだろう。

誰にも迷惑をかけることなく、頑張りすぎてへばっても、

楽しすぎて時間を忘れるくらい熱中しても、自分だけに帰ってくる。

そんな時間が好きなのかもしれない。

誰かのために、自分の時間を消費することはできない。

自分の中から、誰かの役に立ちたいとか

知識としてではなく、心が突き動かされるような。

誰かのためを思って、自分の時間を無碍に扱うことはできない。

1人で居たいって気持ちに正直になって、相手がどうこうではなく。

1人の時間が充実すれば、誰かと一緒にいる時間がより輝いてくる。輝いている人同士が集まって、もっと大きなキラキラになることが自然な気がしてきた。

1人の時間をどれだけ、好きで埋め尽くすことができるか!

更新が少しあいてみて思うこと

自分の変化は、自分ではなかなか確かめることが難しかったりする。

変化していないようで、ほんの少しずついろんなことが変わっていて、

その変化に気付けていなから、変わっていけなかったり何がどう変化したのか、わからなくなってしまう。

noteを続けていた時は、いろんな気づきや、思いつきがどんどんできてその度に考えていることが変わっていって、それはそれでいいことにも気づくことができての繰り返しだったけど、

更新しなくなると、自分自身との対話は記録には残らないし、記憶にも残らないし、忘れ去られてしまう。なかったことになってしまう。

自分自身の変化をみて、振り返って、楽しむことができるためにも、自分の歴史を残す意味でも、何かに書き起こすってことはとても大切なことなんだなと、noteをすこしはなれてみてから感じることができました。

めでたしめでたし。

身体の調子

きついときでも、動いてみるとなんてことなかったりする。

ちょっときついくらいで、休むことが普通になっていたけど

回復はするものの、調子が良くはならない。

きついときでも、ちょっと頑張ってみて

一時的なキツさを乗り越えたらそのあと長く続く好循環に乗っていける。

きつい時は、休む時じゃない。

もう一踏ん張りする時。

踏ん張った先にもっと楽しいことがあるんだもん。


向き合ってみる

向き合うこと、乗り越えることも大切だと思う。

けど、そこに我慢があるのであれば、逃げたりした方がいいと思う。

向き合って乗り越えたり、我慢してたどり着くことに関しては、

誰かに語る時には意味があるかもしれない。

僕はこんな我慢をしてきたんだ。こんなに大変なことを乗り越えてきたんだって。

でも、我慢しなくても、向き合わなくてもたどり着けるところはあると思う。

人それぞれ、向かう場所も、価値観も、存在意義も違うんだから

みんなが、乗り越えたり、向き合ったりする必要なんてないんだ。

向き合ったり乗り越えることが美化されている時代だけど、

反対のことをやるだけでも、ちょっとだけみんなとは見える景色が違ってくる。

思いつき

殻を破る。

自分が変化する時は、何かの外側に行くようなイメージを持っていた。

自分というからを捨てて、新しい自分と出会う。

たくさんの本に書いてあるので、そんなふうになっているんだろうと思っていたけど、本当にそうなのか疑問に思った。

外側に出ることが変化なのか。変化は外側に出ることなのか。

新しい自分になるってなると、なんか頑張らなきゃいけないような気がして、

何かを捨てて、新しい自分を手に入れる的な感じ。

特殊なことをしたり、我慢したり、今の自分が嫌だからって変えたいって思いからそんなふうになっているみたい。

むしろ逆だと思う。

内側に内側に掘り進んでいくイメージ。

自分の周りにたくさんついている、価値観や、理想、現実、夢、希望、しがらみ、ほかにもたくさん。

それを一つ一つ外していくことが自分が変わるって意味だとおもう。

今まで自分自身も新しい自分に生まれ変わりたいと強く願っていろいろやって、結局変われずに自分はダメなやつなんだってイメージが固まっていった。

変化には、何か我慢が必要で今の自分からとび出すことだと思っていたから。

けど、内側に掘り進んでいくって考えてみると、今の自分を大切にしながらいらないものを壊していって、新しい自分に出会って

好きな自分に近づいていくのが楽しくなるんじゃないかなー。

今の自分を嫌いになって、新しい今の自分が好きな自分に飛び出すよりも、

自分は自分なんだから、今の自分も必要なわけであって、

けど、新しい環境だったり、心境の変化で昔の自分が必要じゃなくなったら、一つ掘り進んでいけばいいんじゃないかな。

掘り進んでいくんだから、簡単に壊れるからもあれば、

超絶に固い甲板みたいなからもあるかもしれない。

その時その時に、必要な力も時間も変わってくるのは当たり前で、

たくさん変化しているように見えて、実は新しい殻を覆いかぶせている可能性もある。

他の人の価値観や、知識に染まっていくと、殻はどんどん膨らんでいくかもしれない。

外に飛び出そうとせずに、内側に突き進んでいくのも

悪くない気がする。