たまたま、早起きした

普段は、8時間以上寝ていないとどこか調子が悪いように感じたり、眠気が取れなかったりするけど、今日の目覚めはすっきり。

考えられる理由は、

1、食事にスムージーをプラスした

2、23時には就寝した

3、適度な運動をした

4、リラックスできる空間を作った。

1、食事にスムージーをプラス

今までは、ほっと○っとでの食事が圧倒的に多かった。。

最近は自炊するようになって、意識的に野菜を取るようにしてはいたけど、量としては少なかった。そこで、スムージーを作ってみたらこれがまたいい感じ。バナナ、小松菜、りんご、豆乳を投入して混ぜるだけ。あら簡単。

正直普段の食生活で、野菜の栄養素を少しでも残すように調理したりするのって、気軽にできることではない。以前はサプリメントも多用していて、プロテインも、HMBも、BCAA、デキストリン、パンプ系、クレアチン、亜鉛などなど、一通りは試してきた。一時的には体力も筋力もアップするけど、お腹を壊したり、血圧の乱高下があるからだるさが残ったりしていた。各成分の効果で、疲れが取れているように感じるけど身体自体は疲れが蓄積されているので、どこかのタイミングで限界が来ていた。

サプリメント自体は、否定しない。間違いなく、飲んでいる期間は効果がある。明らかに筋肉や体力のつくスピードが違う。体質の問題もあるけど、自分には合わなかった。その代わり、スムージーを作り始めてからは体調が安定し、お腹の不調も明らかに減った。

人によっては、朝食を食べなかったり、昼は眠たくなるからほんの少ししか食べない方もいる。自分もそうだったが、お腹が空いて気になることも増えていた。

そこで、朝食にスムージー、もしくは昼食にスムージーをプラスすると、適度な満腹感もあり、集中力が続いた。

2、23時には就寝

例えば、同じ8時間睡眠でも0時から8時まで寝るのか

22時から6時まで寝るのか。この就寝時間には大きな違いがある。

人それぞれ、体質が違うので同じようには言えないが、

8時間睡眠とりましょうとか、6時間を切ると身体に良くないとされているが、自分にあった睡眠のタイミングを見つけることが一番だと気付いた。やたらと8時間寝ればいいと考えて、0時ー8時の生活を続けているけどあまり変化がない場合は、23時ー7時、22時ー6時など変えてみると、同じ8時間でも睡眠の質や、翌日の疲れの取れ具合が大きく違ってくるので、ぜひ試してみてください。

3、適度な運動

今までは、無理してなんぼではないけど、身体をとことん追い込むことが運動だと勘違いしていた。追い込んでいないと、運動した気になれなくてそのせいで翌日の疲労感がきつすぎて運動が続かないみたいなことが多かった。ようやく、1日1日極端に追い込むのではなく、3年、5年かけて少しづつ改善していくように心がけて、運動する日程が空いてもまた始めればそれでいいし、やりたくない時は無理にやらなくてもいい。その代わり、完全にやめてしまうのではなく、気付いたときにまた少しやってみる。それを繰り返していれば、完全に挫折してやめてしまう5年間よりも、気付いた時だけでもちょっとずつやってきた5年間であれば大きな違いが出てくる。

最近の筋トレブームで、大きな筋肉を育てることがいいことで、そうじゃなかったら筋トレする理由がないと思っていたが、それも自分の勘違いだと気付いた。少しでも大きくするためならサプリメントにお金を惜しまなかったけど、そうじゃない。

大きな筋肉がいいと思っていたのは、他者からの視線が気になっていたからそれだけだった。少しでもよくみられたい、そんな気持ちがどこかにあった。そんなこんなで、振り返って考えてみたらトレーニングして美しくなりたいんだったなーと。別にトレーニングしなくても生きていけるし、何をしてもしなくても生きていけるけど、自分で整えて美しいと思える身体で生活するのと、そうじゃないのとでは、自分の行動も思考にも影響してくる。どうせ生きるなら美しい身体と心で生きた方が幸せな気持ちがもっと増える。

4、リラックスする空間

落ち着く空間って、こんなに疲労感や気持ちに大きな変化をもたらすって考えていなかった。なんとなく過ごしているだけでは、リラックスできてなくて疲れが溜まったままだったり、気持ちのリセットができなかったりする。そうすると、翌日のパフォーマンスにも影響するし、気分が乗らないことが原因で、自分自身の夢を追いかける時の気力や、体力を失ってしまう。

元気が有り余っている人は気にすることはないかもしれないけど、年齢に関係なく、何かを追いかけたりする時は元気な時こそいかに丁寧に無理をしないように気をつけて行動し続けられるか。一時的にどわっと頑張って潰れても誰も助けてくれないから。周りが早くても、遅くても、自分のペースで淡々と続けられるか。

どうやったら、自分が一番リラックスできるかなんてあまり考える機会はないけど、潰れてしまう前に見つけておくといろんな場面で自分で自分を救うことができると思う。むしろ、潰れかけで見つけることはほぼできないから。

がんばるためには

何かをするときや、人生をかけて何かをしようと考えたときに

今までは、自分のやりたいことを成し遂げるためだけだとか、自分の人生自分のやりたいようにやらなきゃダメだ!自分の人生を生きろって言葉の解釈は、自分の欲望を満たすことだとずっと思っていた。

けど、どうも違うような気がしてきた。

自分のためだけに頑張るのは限界があった。得するのも自分だし、損するのも自分だし。自分のためだけだったら、そこまでして幸福を求めたいと自分は思えなかった。

自分が心から大切に想う人がいて、それが家族なのか、友達なのか、愛する人なのか。それは人それぞれ違うと思うけどそのためにだったら、自分のためと考える以上にいろんな壁を乗り越えていける。

一人では決してできないところまで連れていってくれるし、苦しいときに踏ん張る力もうんと増える。

そのためには、自分の周りにいる人には細心の注意を払って、心を許せる人だけに絞る必要がある。要らぬ気遣いをし続けるような関係をほんの少しの勇気を持って、手放していく。手放して、本当に大切な人たちにもっと愛情を持って接していく。

自分のためには頑張るのは限界がある。

誰かのためなら一緒に乗り越えていけるので限界はない。

とっさの出来事

集団にいるなかで、自分にとって必要な行動をできるだろうか。

してもしなくても、なんの問題もない出来事に当事者意識を持って行動できるだろうか。

いやでも考えさせられるようなことが、最近増えている気がする。

お前はそんなんでいいのか?人の評価を気にしないようにしていて、一番気にしているのは自分じゃないか?

知識として、気にしないことは知っていてもそのように行動できているかどうかは

別問題である。

人がしないから、自分もしない。

人がするから、自分もする。

そんなふうに人生を決めてしまっていないか?

人がしなくても、自分はする。

人がしていても、自分はしない。

その中に本来の自分があるんじゃないかな。

いろんなことに妥協して、これくらいでいいやって。

知識を付ければつけるほど、いいこともあるけど動けなくなっている部分もある。

活かす前提、必要に迫られての知識ではないから頭でっかちになって行動に抑制がはしる。

読書が悪いのではなく、本から受け取るべき内容を自分自身で選択を間違えたことが原因。

そんな気づきを与えてくれた友人には心から感謝している。

決めつけることのオソロシサ

この先どうなるかわからないし、どんな選択をしたとしてもその先にどんなことが待っているかは、想像はできるとしても、それが事実になるとは限らない。

想像は想像でしかなくて、その想像が間違うことも、正しいこともどちらもある。

自分の知っているなかでしか、判断はできなくて知っていることが少なければ、それだけ選択肢への想像も少なくなる。

むしろ、知らないことの方が圧倒的に多いのに自分の知っていることだけを基準にして判断してやめてしまうことは自分の可能性を小さくしてしまう。

何かを判断する時に、考えた結果行動することを選ぶのは問題ないが、行動を止める選択をするときは、もう一度、考えた方がいい。

行動しようかどうか迷って、やめてしまうことは、一見何も自分自身が変化しないので、安心できる状態にはなるかもしれないが、行動することによるメリットの方が圧倒的に大きい。と最近ようやく感じれるようになってきた。

やってみて、自分自身を変化させてみてその後にどう感じるかをその時にまた考えれば、堂々巡りすることなく、新しい価値観で選択をすることができる。

おなじ価値観でずっと考えたり、迷ったりしても、おなじ答えや結果しか生まれない。

これは、こうって決めてしまえば生きるのは少し楽になるかもしれないけど、常に変化させていかないとどんどん苦しくなってしまうなーって。最近心から感じる。

いま、自分がどんな決めつけをしてしまっているのかを知るだけでも、大きな前進になる。

人の多いところで過ごしてみる

人の多いところが嫌いです。

週末のショッピングセンターや、観光スポット、などなどたくさんの人が行き交う中で過ごすのはとてもストレスになる。。。

周りの人が気になるからなのか、パーソナルスペースがなくなるからか、過ごすだけでとても疲れてしまう。

ずっと避けてきたけど、ふとそんな休日にショッピングセンターに行きたくなった。普段は平日もお休みなので、人の少ない時に自由に行けるけど、人間観察をするには少し人が少ない。

自分にとって不快な空間に足を踏み入れるのはとても嫌で、余計に疲れるし、いいことないと思っていたけど、それは目的がなかったからやい雲に疲れていたんだなーって実感。

多くの人の心を動かしたり、どんな製品が人気があるのか、買い物の行動パターンはどうなのか。本を読むだけでは味わえないような体験をすることができる。知っているものと、実際の社会を俯瞰的に観察してみて、違うこともたくさんあれば、そんな風になるのかって新しいことを知ることができる。

他にも、自分が不快だからという理由で避けているものがたくさんあるけど、その中にも学ぶことや、感じること、驚きは隠れている。

避けてしまえば、そのチャンスを自分から捨てることになってしまう。それは、いままで気づかなかったことで、自分にとって意味があると思うことの中だけから、新しい発見をできると勘違いしていたけど、いいも悪いも、快も不快もどちらからもどんなことでも見出すことができれば、人生全てが発見になるし、楽しいことへの選択肢が倍に増えることになる。

時には、自ら不快に飛び込んでいくちょっとした勇気と、気持ちの転換が必要みたい。

たくさんの人がいるなー。

身体がおかしい?

げっそりとしている。。。

ご飯は食べているのに、身体の調子がどこかおかしい。

落ち着いて生活できているはずなのに、何かがまだあるんだろう。

一つ一つ見つめていこう

学習能力と姿勢の関係

主観ですが、学習能力が高い人は、姿勢が綺麗であることが多い。

前職で新卒採用をしていた際に、筆記テストを行っていた。

学習能力がたかい(ここではわかりやすくするために偏差値が高いとする)学生の方は総じてテストを受ける際の姿勢が綺麗だった。

背筋をピント伸ばし、背もたれにもたれかかることなく、胸は自然と開かれていて、頭が前になることなく、真っ直ぐに保たれている。

偏差値の変化に従って、姿勢が悪くなっていった。背筋が曲がっていたり、猫背になていたり、頭が前に落ち込んでいて、胸が閉じるようになっている。

学習能力(偏差値)と姿勢には深い関係があると考える。

小学生の頃から、机に座って学習をする時間が出てくるが、若干の高さ調整はできるにしても、それが個人個人に適切にフィットしているかどうかは疑問が残る。

また、姿勢は大人でも綺麗な状態に保つことは難しい。自分の周りに姿勢が綺麗だなって人がどれくらいいるだろうか。かく言う自分自身も姿勢に気をつけようとしていながらも気が緩むとすぐに自分にとって楽な姿勢(汚い姿勢)に戻ってしまう。そうなると、子供がいくら学習中の姿勢を注意されても、自分のどこが姿勢が悪いのか、どのように正せばいいのか、個人差が生まれてしまう。

その状態が、小学校6年間、中学高校6年間、大学、専門学校などへの進学を含めると10年以上をその姿勢で過ごすことになってしまう。それも、本人の自覚がないままに。

この事実は恐ろしいことで、その後の人生までを左右するレベルの問題である。姿勢の悪さは集中力の欠如や、体調不良など様々な問題に直結する。なのに、姿勢を正しましょう、こういう姿勢で勉強しましょうだけでは子供たちには伝わらない。大人でも難しいことを子供が簡単にできるとは思えない。

机や椅子の高さを合わせるだけでなく、そもそも机がなぜ平らなのか。教科書を読む時は平らな机に置いているのでどうしても自然と下を向いて頭が前に出てくる姿勢になってしまう。もし、机が斜めになって教科書を頭を下げずに見えるようにすれば、自然と無理な姿勢から開放される。

姿勢を正すことを個人の責任のもとにするのではなく、学習環境から変えていくことが必要。意識せずとも自然に綺麗な姿勢になるような机や椅子が全国の小中高大専門学校に広まっていけば、人間の本来持っている能力を最大限に発揮し、学習能力の向上に役立つ。

これは、偏差値を高めるために行うのではなく生涯学習を続けていき、個人個人の人生がより輝くために必要なこと。受験勉強をたくさんするためではなく、個人が自分自身にとって大好きなこと、心からやりたいと思うことに突き進むための準備として、学習環境を変えたい。

わかりやすく、伝えるために偏差値という言葉を選んだが、偏差値はどうでもいい。正しい姿勢を身につけて、その人自身の能力が勉強やスポーツ、文化活動、音楽や、芸術など、向かう方向性はなんだっていい。一人一人が輝く未来を作るために、姿勢がもたらす変化を信じて実現する。

教育関係にいたわけでもないし、姿勢に関する専門知識があるわけでもない。生きている以上、自分の身体とは死ぬまで一生一緒にいるわけだから。その根幹が少しでもいいものに変わっていけば、子供たちの未来は明るくなる。

余計に求める

落ち着いて考えたら、そんな必要もないし、しなくてもいいことなのに余計に求めてしまってがっかりすることがある。

ありのままをそのまま受け入れて、認めてあげたいと思うのに、もっともっとと考えてしまって、自分自身を苦しめてしまう。

自分自身を苦しめることが趣味なのかと思うほどに余計なことまで考えて勝手し失望して。他の誰かがそうしている時は、自分が勝手に幻想を作っているだけじゃんと言うことができても、実際に自分が同じようになっている時はなかなか気づくことができない。

自分を客観的にみて、どんな状態になているかを正確に判断できる人はどれくらいいるんだろう。いろんなことに流されてしまって自分の考えや価値観、想いを丁寧に扱うことができなくなって。

自分のこれまでをほんの少し振り返っただけでも知らないことが多すぎてびっくりしている。20年以上ずっと一緒に生きてきたはずなのに、何が好きで、何に感動して、何が嫌いで、将来何を成し遂げたいと思っているのか。これっぽっちもわかっていなかった。

そう考えたときに、自分の周りに、学校や職場趣味の集まりなど。そういった集合体の中で、そこまで考えている人はどれくらいいるんだろう。そこに集まっている人たちはみんな乗り越えていて、自分なりの回答を持っているのだろうか。

本で読んだ知識や、内容を使ってではなく自分自身の表現をできるだろうか。どちらが正解ってわけではないけど、自分の中できちんと答えを一つ一つに出していきたいなとふと思った。

その時の自分が正解かどうかは別として、今の自分がどう感じていて、何を求めているかを定義してみる。いろんな自分と出会ってみて中にはこんな自分がいたんだって気づくこともあれば、嫌いな自分が出てくるかもしれないけど、ポジティブな感情も、ネガティブな感情も自分の一部だから、それすらもまるっと向き合ってみてどんな変化が起こるか楽しみ。

サラリーマンに対して否定的に捉えていた

今まで、サラリーマンとして働いてきていろんな本を読んでいく中で徐々に会社員として働くことに対して否定的に捉えるようになっていた。

自分の好きなことをして生きていくという言葉の本質を見極めきれないままその、表面的なキラキラした感じに踊らされていた。

会社に所属して、自分の時間を使って嫌な人がいてもご機嫌とりをして、嫌な仕事でも淡々とこなして、どんな仕事でも楽しくできるように工夫して。我慢した数だけ、ほんの少しお給料があがって。

そんなふうに捉えていたら、そりゃあサラリーマンが嫌になるよなーって。振り返ってみると思う。

落ちついて、冷静になって考えてみると自分自身が会社で働くことへの意味を見出せず、自分の都合のいいように勝手に解釈しているだけだなーっと。環境のせいにして、自分自身の非力さから逃げていただけだと。

一緒に何かを成し遂げたいと思える仲間がいて、安心して働ける環境があって、自分の力が何かの役になっていると思えて。それって、かけがえのない存在だと思う。

この気づきは、会社を辞めて半年くらい経ってようやく見つけることができた。その選択肢もありだし、違う選択肢もありなんだ。

その時はわからなかったことだけど、もしかしたら遠回りになっているのかもしれないけど、その時間があったからこそ、その選択をしたからこそ今の考えがある。

過去の自分の選択や、考え方を否定して後悔するのではなく、その選択から未来の自分が何を読み取ってくれるかにかけてみる。逃げたきゃ逃げる。戦いたいなら戦う。

考え方が全く正反対になることもあるだろうし、そんな自分の変化に驚くこともある。その都度、気づきに感謝してひとつひとつ積み重ねていけば、納得して選び続けることにつながる。

過去の選択は一瞬だけを切り取ると失敗に移るかもしれないけど、長い目で見るとその選択があったからこそと言えることが必ず起こる。

ちょっとだけ、物事を大きく見れるようになれたかなー。