昔の投稿

目に見える場所に、昔の出来事が保存されているのはそのときは考えたこともなかったけどちょっと自分の時間や考え方、その時何ができていてできてなくてどんなことに悩んでいて、見返すまでは全く思い出すこともできないことばかり。

自分のためというよりは、それでまた色々物思いに耽ってみてそこからまた新しい何かを感じたりすることができればかけがえのない何かなのかもしれない。

やっとなのか、ようやくなのか?書きたいと言うよりも、この時間を取ろうと思えることが心境の変化というか、ずっとそこにあるのに向き合ってこなかったのか逃げてきたのか

それとも、何かを見失っていたのか。

見失っている間は、何かを言われてもポンとこなかったり、それがどうかかえ考えることもできなかったり、ただ漠然と生きているような、死んでいるような日々が続く。気づくまで待つのか、気づくきっかけを誰かが与えてくれるのか、そうなった上で、その気づけなかった時間すらも貴重な財産に、失敗から何かを得ることができるか。

順風満帆、失敗の少ない人生は見た目はいいけど

どうせなら、失敗しまくってる人生の奴から、そういう奴の方が、でかいことをしでかすと信じて。

この世の中、楽に快適に生きていく方法はいくらでもあるけど楽しい感情を簡単に見失ってしまう。満たされているような錯覚と気づかないままに。いや、そんなこともないのかな?その中で気づかないままに死んでいく方が幸せ?なのかもしれないけど

求める、幸せの感じ方の違い、いろんな意見の中で、自分が好きな幸せを選んでいろんなことが起きて、、

その途中にあることを含めて進んで、止まって、周りを見渡して、

どっちでもいいんだから、何をしてもしなくても、誰かに何かできなくても、自分のできることでできる範囲で、誰かがちょっとクスッとなればええんではないでしょうか