決めつけることのオソロシサ

この先どうなるかわからないし、どんな選択をしたとしてもその先にどんなことが待っているかは、想像はできるとしても、それが事実になるとは限らない。

想像は想像でしかなくて、その想像が間違うことも、正しいこともどちらもある。

自分の知っているなかでしか、判断はできなくて知っていることが少なければ、それだけ選択肢への想像も少なくなる。

むしろ、知らないことの方が圧倒的に多いのに自分の知っていることだけを基準にして判断してやめてしまうことは自分の可能性を小さくしてしまう。

何かを判断する時に、考えた結果行動することを選ぶのは問題ないが、行動を止める選択をするときは、もう一度、考えた方がいい。

行動しようかどうか迷って、やめてしまうことは、一見何も自分自身が変化しないので、安心できる状態にはなるかもしれないが、行動することによるメリットの方が圧倒的に大きい。と最近ようやく感じれるようになってきた。

やってみて、自分自身を変化させてみてその後にどう感じるかをその時にまた考えれば、堂々巡りすることなく、新しい価値観で選択をすることができる。

おなじ価値観でずっと考えたり、迷ったりしても、おなじ答えや結果しか生まれない。

これは、こうって決めてしまえば生きるのは少し楽になるかもしれないけど、常に変化させていかないとどんどん苦しくなってしまうなーって。最近心から感じる。

いま、自分がどんな決めつけをしてしまっているのかを知るだけでも、大きな前進になる。

人の多いところで過ごしてみる

人の多いところが嫌いです。

週末のショッピングセンターや、観光スポット、などなどたくさんの人が行き交う中で過ごすのはとてもストレスになる。。。

周りの人が気になるからなのか、パーソナルスペースがなくなるからか、過ごすだけでとても疲れてしまう。

ずっと避けてきたけど、ふとそんな休日にショッピングセンターに行きたくなった。普段は平日もお休みなので、人の少ない時に自由に行けるけど、人間観察をするには少し人が少ない。

自分にとって不快な空間に足を踏み入れるのはとても嫌で、余計に疲れるし、いいことないと思っていたけど、それは目的がなかったからやい雲に疲れていたんだなーって実感。

多くの人の心を動かしたり、どんな製品が人気があるのか、買い物の行動パターンはどうなのか。本を読むだけでは味わえないような体験をすることができる。知っているものと、実際の社会を俯瞰的に観察してみて、違うこともたくさんあれば、そんな風になるのかって新しいことを知ることができる。

他にも、自分が不快だからという理由で避けているものがたくさんあるけど、その中にも学ぶことや、感じること、驚きは隠れている。

避けてしまえば、そのチャンスを自分から捨てることになってしまう。それは、いままで気づかなかったことで、自分にとって意味があると思うことの中だけから、新しい発見をできると勘違いしていたけど、いいも悪いも、快も不快もどちらからもどんなことでも見出すことができれば、人生全てが発見になるし、楽しいことへの選択肢が倍に増えることになる。

時には、自ら不快に飛び込んでいくちょっとした勇気と、気持ちの転換が必要みたい。

たくさんの人がいるなー。

身体がおかしい?

げっそりとしている。。。

ご飯は食べているのに、身体の調子がどこかおかしい。

落ち着いて生活できているはずなのに、何かがまだあるんだろう。

一つ一つ見つめていこう

学習能力と姿勢の関係

主観ですが、学習能力が高い人は、姿勢が綺麗であることが多い。

前職で新卒採用をしていた際に、筆記テストを行っていた。

学習能力がたかい(ここではわかりやすくするために偏差値が高いとする)学生の方は総じてテストを受ける際の姿勢が綺麗だった。

背筋をピント伸ばし、背もたれにもたれかかることなく、胸は自然と開かれていて、頭が前になることなく、真っ直ぐに保たれている。

偏差値の変化に従って、姿勢が悪くなっていった。背筋が曲がっていたり、猫背になていたり、頭が前に落ち込んでいて、胸が閉じるようになっている。

学習能力(偏差値)と姿勢には深い関係があると考える。

小学生の頃から、机に座って学習をする時間が出てくるが、若干の高さ調整はできるにしても、それが個人個人に適切にフィットしているかどうかは疑問が残る。

また、姿勢は大人でも綺麗な状態に保つことは難しい。自分の周りに姿勢が綺麗だなって人がどれくらいいるだろうか。かく言う自分自身も姿勢に気をつけようとしていながらも気が緩むとすぐに自分にとって楽な姿勢(汚い姿勢)に戻ってしまう。そうなると、子供がいくら学習中の姿勢を注意されても、自分のどこが姿勢が悪いのか、どのように正せばいいのか、個人差が生まれてしまう。

その状態が、小学校6年間、中学高校6年間、大学、専門学校などへの進学を含めると10年以上をその姿勢で過ごすことになってしまう。それも、本人の自覚がないままに。

この事実は恐ろしいことで、その後の人生までを左右するレベルの問題である。姿勢の悪さは集中力の欠如や、体調不良など様々な問題に直結する。なのに、姿勢を正しましょう、こういう姿勢で勉強しましょうだけでは子供たちには伝わらない。大人でも難しいことを子供が簡単にできるとは思えない。

机や椅子の高さを合わせるだけでなく、そもそも机がなぜ平らなのか。教科書を読む時は平らな机に置いているのでどうしても自然と下を向いて頭が前に出てくる姿勢になってしまう。もし、机が斜めになって教科書を頭を下げずに見えるようにすれば、自然と無理な姿勢から開放される。

姿勢を正すことを個人の責任のもとにするのではなく、学習環境から変えていくことが必要。意識せずとも自然に綺麗な姿勢になるような机や椅子が全国の小中高大専門学校に広まっていけば、人間の本来持っている能力を最大限に発揮し、学習能力の向上に役立つ。

これは、偏差値を高めるために行うのではなく生涯学習を続けていき、個人個人の人生がより輝くために必要なこと。受験勉強をたくさんするためではなく、個人が自分自身にとって大好きなこと、心からやりたいと思うことに突き進むための準備として、学習環境を変えたい。

わかりやすく、伝えるために偏差値という言葉を選んだが、偏差値はどうでもいい。正しい姿勢を身につけて、その人自身の能力が勉強やスポーツ、文化活動、音楽や、芸術など、向かう方向性はなんだっていい。一人一人が輝く未来を作るために、姿勢がもたらす変化を信じて実現する。

教育関係にいたわけでもないし、姿勢に関する専門知識があるわけでもない。生きている以上、自分の身体とは死ぬまで一生一緒にいるわけだから。その根幹が少しでもいいものに変わっていけば、子供たちの未来は明るくなる。

余計に求める

落ち着いて考えたら、そんな必要もないし、しなくてもいいことなのに余計に求めてしまってがっかりすることがある。

ありのままをそのまま受け入れて、認めてあげたいと思うのに、もっともっとと考えてしまって、自分自身を苦しめてしまう。

自分自身を苦しめることが趣味なのかと思うほどに余計なことまで考えて勝手し失望して。他の誰かがそうしている時は、自分が勝手に幻想を作っているだけじゃんと言うことができても、実際に自分が同じようになっている時はなかなか気づくことができない。

自分を客観的にみて、どんな状態になているかを正確に判断できる人はどれくらいいるんだろう。いろんなことに流されてしまって自分の考えや価値観、想いを丁寧に扱うことができなくなって。

自分のこれまでをほんの少し振り返っただけでも知らないことが多すぎてびっくりしている。20年以上ずっと一緒に生きてきたはずなのに、何が好きで、何に感動して、何が嫌いで、将来何を成し遂げたいと思っているのか。これっぽっちもわかっていなかった。

そう考えたときに、自分の周りに、学校や職場趣味の集まりなど。そういった集合体の中で、そこまで考えている人はどれくらいいるんだろう。そこに集まっている人たちはみんな乗り越えていて、自分なりの回答を持っているのだろうか。

本で読んだ知識や、内容を使ってではなく自分自身の表現をできるだろうか。どちらが正解ってわけではないけど、自分の中できちんと答えを一つ一つに出していきたいなとふと思った。

その時の自分が正解かどうかは別として、今の自分がどう感じていて、何を求めているかを定義してみる。いろんな自分と出会ってみて中にはこんな自分がいたんだって気づくこともあれば、嫌いな自分が出てくるかもしれないけど、ポジティブな感情も、ネガティブな感情も自分の一部だから、それすらもまるっと向き合ってみてどんな変化が起こるか楽しみ。

サラリーマンに対して否定的に捉えていた

今まで、サラリーマンとして働いてきていろんな本を読んでいく中で徐々に会社員として働くことに対して否定的に捉えるようになっていた。

自分の好きなことをして生きていくという言葉の本質を見極めきれないままその、表面的なキラキラした感じに踊らされていた。

会社に所属して、自分の時間を使って嫌な人がいてもご機嫌とりをして、嫌な仕事でも淡々とこなして、どんな仕事でも楽しくできるように工夫して。我慢した数だけ、ほんの少しお給料があがって。

そんなふうに捉えていたら、そりゃあサラリーマンが嫌になるよなーって。振り返ってみると思う。

落ちついて、冷静になって考えてみると自分自身が会社で働くことへの意味を見出せず、自分の都合のいいように勝手に解釈しているだけだなーっと。環境のせいにして、自分自身の非力さから逃げていただけだと。

一緒に何かを成し遂げたいと思える仲間がいて、安心して働ける環境があって、自分の力が何かの役になっていると思えて。それって、かけがえのない存在だと思う。

この気づきは、会社を辞めて半年くらい経ってようやく見つけることができた。その選択肢もありだし、違う選択肢もありなんだ。

その時はわからなかったことだけど、もしかしたら遠回りになっているのかもしれないけど、その時間があったからこそ、その選択をしたからこそ今の考えがある。

過去の自分の選択や、考え方を否定して後悔するのではなく、その選択から未来の自分が何を読み取ってくれるかにかけてみる。逃げたきゃ逃げる。戦いたいなら戦う。

考え方が全く正反対になることもあるだろうし、そんな自分の変化に驚くこともある。その都度、気づきに感謝してひとつひとつ積み重ねていけば、納得して選び続けることにつながる。

過去の選択は一瞬だけを切り取ると失敗に移るかもしれないけど、長い目で見るとその選択があったからこそと言えることが必ず起こる。

ちょっとだけ、物事を大きく見れるようになれたかなー。

楽しく過ごすこと

アルバイトの途中で、小学生のお子さんと遊んでいたらお母さんに感謝されて大好きなタルトをいただきました。

自分にとってはなんの苦なくできることなのに、それでこんなに感謝されるのって嬉しいことだなーって心から思えた。

自分には何もできないって思うこともたくさんあったけど、そう思う人ほど気づいていないだけで、極端に他の人よりもできることがある。

本によく、いくらやっても苦しくならないことを仕事にって書かれていることがあるけど、今まではイマイチそんなもんあるかーいって。正直思ってたけど、時間か、タイミングかふらーっとその時がやってくるんだろうなー。

ただ、なんとなく生きていても

良いことや、楽しいことは向こうからやってくる。

いろんな目標を持っていろんなことにチャレンジして貪欲になっていくこともいいと思うけど、

流れに身を任せて、焦らずゆっくり、のんびりだらだら進んでいってもいい気がする。目標なんかなくても、夢がなくても楽しむってことだけを忘れなければ。

あとは、人それぞれの進み方で素敵なそれぞれのくうかんができあがっていく。

本を読む時に気をつけること

自分の本質を見失わないこと

たくさん、いろんな考えに触れると影響を受け過ぎてしまう

自分よりもすごい人たちが書いていることだから、自分もそうありたいとか

そうあらなければならない。書いてあることと違う自分が恥ずかしくなることもあるけど、自分の本質とズレたところで見習ってみてもうまくいかないことがある。

書いてあることをそのまま鵜呑みにしてしまっては、書いた人にとってはそれが正解だったかもしれないけど、それを自分自身に同じように当てはまるはずがない。いろんな考えに触れて、最終的には自分自身がどう感じて、どう行動していくかは自分で考えなくてはいけない。

自分なりに噛み砕いて、反芻して、自分の型に合うように変換することで初めて変化が生まれてくると思う。

たくさん参考にして、行動するのは大切だけどその中で自分の本質からずれていないか常にチェックしていくこと。本質とズレたところをでどれだけ力を込めても目指すところには届かなくなってしまうから。

どんなときでも、自分が一番大切。どんな考え方であっても、自分の本質を大切にして。

自由なのに自分自身で縛っていた

本来、人間はどんなことからも自由なのに自分自身でいろんなしがらみをつくっていた。

今の自分を振り返った時に縛られるのが嫌で、いろんなことから離れて自由を手に入れようとしているはずなのに、逆にこうあるべき、こうあらなければいけないと思ってしまい、身動きが取れなくなっていた。

このことは、衝撃的な気づきだった。全ては自分の責任、目の前に起こることは自分自身が選択してきたことだとようやく理解できてきたところだった。

今までは、環境のせいや誰かのせいにしてきてそれではいけないと思い、考えを改めてきたつもりだった。それが、よくよく振り返ってみると自分が一番なりたくないと思っていた思考になっていた。。

今、すでに何事からも自由なのに自分で自分を縛って動けなくして、現状のままを見て見ぬふりようしようとしていた。場所や時間、周りの環境を変えてその都度自分と向き合ってふとその気づきを得ることができた。

今は、仕事をしていないので1日の全てが自分の時間としてある。何かをすることも、何もしないことも全てが自分の思い通りになるはずだ。そんな状況にもかかわらず、今までの自分の中の理想や、妄想に囚われてしまっていた。たくさん時間をかけて自分と向かい合って問いかけてきたつもりだったけど、また振り出しに戻った気分だった。

一見、堂々巡りのように感じるけどたくさん、たくさんぐるぐる回ることは昔はいけないことで、なんの変化も成長もないと考えてきたけど、

ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる回っていたら回っている場所から遠心力でポイって外に出れるんじゃないかなー。中途半端にぐるぐるするからずっとその考え方や価値観から抜け出せなくて。極端にぐるぐるしてしまえばまた新しい世界まで飛んでいける。考えれば考えるほどその瞬間は負荷がかかるし、苦しいし、もやもやイライラすることもあるけど、そのぶんたくさん勢いづいてぴょーーーーんって飛んでいける。

環境や、人間関係の縛りから外れたら最後の最後に残っていたのは自分自身の縛りだった。

あと少し。もうここまでこれたんだから。

今は、どれだけ時間がかかっても一日中自分のことだけを考えることができる幸せな環境にいる。だからこそ、たくさんのことに感謝しながら、丁寧に自分の時間を生きていく。

全てのことに当たり前はないし、どれも奇跡的なことの連続である反面、すべてを当たり前のことだと思うことによって、当たり前を疑って新しい発見を得ることもできる。

当たり前じゃないことを感謝しながら生きるのもよし、当たり前に思った後に、もう一度疑って見て本質までたどり着くまで考えるのもよし。

どちらにしても、どちらを選んでも、自由。

そのことを心に留めて、もう一度自分と会話してみようとおもう。

健康について

健康であることがどれだけ大切なことか、まだまだ認識されていない部分が多いと思う。

怪我をしたり、病気になってから初めてなんの問題もなく動けていること、普段どうり生活できることがどれだけ幸せなことか気づくことができる。

それが、身体の問題であれば薬や時間が経てば回復する。

だけど、心の健康は薬でも、時間が経っても回復はしない。

心の健康はだれも守ってくれないから、自分で守らなきゃ