オンライン飲み会

うん、自由でいい感じ。

好きなことしながら、好きなタイミングで話に入り込んで

それ以外は自分のしたいことをしながら。

みんなの近況もわかるし、自分の好きなことできるし。

何よりも、自分の家だから疲れたらそのまま寝れることがまた最高なんじゃないかな。

オンライン飲み会をしてみて、人と人は話したりしないとストレスがたまるんだろうなーっと。

今まで当たり前のように、話していたことがなくなって、

当たり前のようにできていたことができなくなってしまって、たくさんストレスを溜めている部分もあるみたい。

オンラインで話を聞いてもらえるだけでも、信頼を積み重ねていけばビジネスになるのかもしれない。

人と話すことって、当たり前のようだけど、これからは当たり前じゃなくなるから、新しい価値が生まれるかもしれない。

今、当たり前と思っていることがどんどんなくなっていって、

新しい価値が生まれていって。

意外と、オンライン飲み会では会社の愚痴とか、そういうのあんまり出てこんなーって

新しい発見かもしれん。

マイナスなこととか、そう言うのってオンラインではなんとなく言いにくいのかな???

会社の愚痴とか、仕事の愚痴とか一番、不要な時間はオンラインで解決できるのかもしれない。

楽しい時間に、自分の時間をコミットする。ただそれだけ。

いっぱい考えることじゃ無い。これかなっておもったら、あとは腹をくくるだけ。

1人で居たくなる

誰かといる時間は好きだし、そばに誰かいて欲しいって気持ちにはなるんだけど、1人で居たくなる。

寂しいから、誰かと一緒にいるのか?自分の足りないものを誰かで埋め合わせるために、誰かと一緒にいるのかな??

音?リズム?空気?違和感とまでは言わないけど、どこか心から安らげなくなってしまう。

その人を嫌いではないし、好きなんだけど、好きな人でさえこんな感情になってしまう。

好きな音楽を好きなだけ聞いて、歌って、のんびりして、

食べたいときにご飯食べて、眠くなったら寝て。

誰かがいると、こうしたほうが過ごしやすいかなとか、

自分ばかり良い気持ちになったらいけないかなとか。

そんなことを考えてしまう。

どうやって、人は仲を深めていくんだろう。

誰にも迷惑をかけることなく、頑張りすぎてへばっても、

楽しすぎて時間を忘れるくらい熱中しても、自分だけに帰ってくる。

そんな時間が好きなのかもしれない。

誰かのために、自分の時間を消費することはできない。

自分の中から、誰かの役に立ちたいとか

知識としてではなく、心が突き動かされるような。

誰かのためを思って、自分の時間を無碍に扱うことはできない。

1人で居たいって気持ちに正直になって、相手がどうこうではなく。

1人の時間が充実すれば、誰かと一緒にいる時間がより輝いてくる。輝いている人同士が集まって、もっと大きなキラキラになることが自然な気がしてきた。

1人の時間をどれだけ、好きで埋め尽くすことができるか!

更新が少しあいてみて思うこと

自分の変化は、自分ではなかなか確かめることが難しかったりする。

変化していないようで、ほんの少しずついろんなことが変わっていて、

その変化に気付けていなから、変わっていけなかったり何がどう変化したのか、わからなくなってしまう。

noteを続けていた時は、いろんな気づきや、思いつきがどんどんできてその度に考えていることが変わっていって、それはそれでいいことにも気づくことができての繰り返しだったけど、

更新しなくなると、自分自身との対話は記録には残らないし、記憶にも残らないし、忘れ去られてしまう。なかったことになってしまう。

自分自身の変化をみて、振り返って、楽しむことができるためにも、自分の歴史を残す意味でも、何かに書き起こすってことはとても大切なことなんだなと、noteをすこしはなれてみてから感じることができました。

めでたしめでたし。

身体の調子

きついときでも、動いてみるとなんてことなかったりする。

ちょっときついくらいで、休むことが普通になっていたけど

回復はするものの、調子が良くはならない。

きついときでも、ちょっと頑張ってみて

一時的なキツさを乗り越えたらそのあと長く続く好循環に乗っていける。

きつい時は、休む時じゃない。

もう一踏ん張りする時。

踏ん張った先にもっと楽しいことがあるんだもん。


向き合ってみる

向き合うこと、乗り越えることも大切だと思う。

けど、そこに我慢があるのであれば、逃げたりした方がいいと思う。

向き合って乗り越えたり、我慢してたどり着くことに関しては、

誰かに語る時には意味があるかもしれない。

僕はこんな我慢をしてきたんだ。こんなに大変なことを乗り越えてきたんだって。

でも、我慢しなくても、向き合わなくてもたどり着けるところはあると思う。

人それぞれ、向かう場所も、価値観も、存在意義も違うんだから

みんなが、乗り越えたり、向き合ったりする必要なんてないんだ。

向き合ったり乗り越えることが美化されている時代だけど、

反対のことをやるだけでも、ちょっとだけみんなとは見える景色が違ってくる。

思いつき

殻を破る。

自分が変化する時は、何かの外側に行くようなイメージを持っていた。

自分というからを捨てて、新しい自分と出会う。

たくさんの本に書いてあるので、そんなふうになっているんだろうと思っていたけど、本当にそうなのか疑問に思った。

外側に出ることが変化なのか。変化は外側に出ることなのか。

新しい自分になるってなると、なんか頑張らなきゃいけないような気がして、

何かを捨てて、新しい自分を手に入れる的な感じ。

特殊なことをしたり、我慢したり、今の自分が嫌だからって変えたいって思いからそんなふうになっているみたい。

むしろ逆だと思う。

内側に内側に掘り進んでいくイメージ。

自分の周りにたくさんついている、価値観や、理想、現実、夢、希望、しがらみ、ほかにもたくさん。

それを一つ一つ外していくことが自分が変わるって意味だとおもう。

今まで自分自身も新しい自分に生まれ変わりたいと強く願っていろいろやって、結局変われずに自分はダメなやつなんだってイメージが固まっていった。

変化には、何か我慢が必要で今の自分からとび出すことだと思っていたから。

けど、内側に掘り進んでいくって考えてみると、今の自分を大切にしながらいらないものを壊していって、新しい自分に出会って

好きな自分に近づいていくのが楽しくなるんじゃないかなー。

今の自分を嫌いになって、新しい今の自分が好きな自分に飛び出すよりも、

自分は自分なんだから、今の自分も必要なわけであって、

けど、新しい環境だったり、心境の変化で昔の自分が必要じゃなくなったら、一つ掘り進んでいけばいいんじゃないかな。

掘り進んでいくんだから、簡単に壊れるからもあれば、

超絶に固い甲板みたいなからもあるかもしれない。

その時その時に、必要な力も時間も変わってくるのは当たり前で、

たくさん変化しているように見えて、実は新しい殻を覆いかぶせている可能性もある。

他の人の価値観や、知識に染まっていくと、殻はどんどん膨らんでいくかもしれない。

外に飛び出そうとせずに、内側に突き進んでいくのも

悪くない気がする。

思いつき 雪山登山をおえて

今までに登山をする機会はあったけど、冬の雪山には挑戦したことがなかった。

初めての雪山を登ってみて思ったことは、

非日常を味わうことができて、画像でしか見たことない景色が目の前に現れてきて、新鮮な気持ちを味わうことができた。

でも、目新しさはあったものの日常との差別化をすることはできなかった。

なにをするにしても もっと、新しいことしたぜ、イェイ!

みたいな感情になって、ワクワクが止まらなくなって強烈にまた行きたいってなるのかなって思っていた。

どうも違ったみたい。

体験としては、九州に住んでいるので雪が積もっていることも、長野県に行くことも、雪山の装備を揃えることも全て新鮮な体験だった。

景色も間違いなく綺麗で、美しかった。

だけど、日々過ごしている日常と優劣はつかないんだなと。

何かをすること、他の人がしてないことをすることがいいことだと思った時期もあった。他の人より少しでも多くの体験や経験をしていることがすごいんだと思っていた時期もあった。

そう考えると、どうしても何もない日常がくすんでしまった。何もしてないことへの焦りや、SNSをひらけば何かをしている人たちの情報なんていくらでも手に入るから。

今は、たくさん発信できる環境にあるから輝いている人はより輝いて見えるのかもしれない。

そんなことを考えていたら、日常が輝いていることっていいことなのかなー。

刺激的な日常に憧れもするけど、なにもなくても何もない中に幸せを見つけることができて、そんな考えができれば、

刺激的な体験をした時に、同じ体験をする中でもより鮮明に、強烈にいろんなことを感じ取れるようになるんじゃないかな。

意図的に、非日常を作り出すよりも、

日常にほんの少しの彩りを与えるために別の何かをするってイメージがしっくりくる。

社会人として生活している中では、どうしても非日常を追いかけることに必死だったけど、やめて半年が経って改めて考えてみると、何もない日常もとても素晴らしいことなんだなって気づくことができた。

何もない日常に、ほんの少しづつ何かをたしていければ、日常ももっともっと輝きを増してくる。

新しい体験をしたという事実から、何を抽出できるか。

それは、どうも日々の生活にかかっているみたい。

めぐりあわせ

必要な時に、必要な人と出会うようになっている。

それが本当だったら、今日の出会いにもたくさんの意味があるんだろう。

ひさびさに、人と「話をできた」なって実感した。

生きている上で、一日中誰とも話さないことはほぼない。

何かしら誰かしらと会話をしながら生きているけど、

話したなーって実感することはほとんど無い。

世間話だったり、身近な話をしたりそんなことはあるけど、

お互いがお互いのことを考えながら、話すことってほとんど無い。

どこか上の空だったり、話半分に聞いてみたり、そもそもきいてなかったり。

何かしら相手をコントロールしたり、支配下に置くような話し方をされたり、

コントロールをされているように感じることが個人的には一番嫌い。

それが、今日は全くなかった。

相手は自分のことを考えてくれて、自分も相手のことを考えていて

お互いが良い意味で干渉しすぎることなく、相手に判断は委ねつつも、

必要な情報や感情を伝えてくれる。

自分は人と関わることが嫌いなのかなーって思う時期もあったけど全くそんなことはなかった。

人と関わることが大好きだった。

それを思い出すきっかけになる話をすることができた。

今までの自分だったら今日の出来事にも意味を見出せなかったかもしれない。

ただの日常として過ぎ去ってしまったかもしれない。

アンテナをどこに張るか、自分自身が何を求めているのか。

どれだけ時間がかかっても自分自身が何を考えていて求めていて、本音と向き合うことができるか。

たくさんの他人や社会からの価値観を知りつつも、自分自身の中で価値観を構築することができるか。

大きな価値観に拠ることは大切なことだけど、それでずっとモヤモヤを感じて取れなかったのであれば、新しい価値観を作り出すしかない。

たくさんの価値観に触れれば触れるほど、何がなんだか分からなくなったり、正解も不正解もあるようなないようなぐちゃぐちゃになってしまう時期もあるけど、

そこでやめないでもう少し苦しんでみて、見つかったものにはかけがえのない価値がある。

新しい価値観なんてすぐに見つかると思っていたけど、時間はかかるし、時間がかかってもいいってことを知っていれば、焦ることなく時にはあえて時間をかけてみるほうが

近道だったりするのかもしれない。

少しづつ

ほんの少しづつ、見えてきているのかもしれない

一緒にいるということ

一緒になって幸せな時間を過ごしていても、すれ違ってしまったら

その人を失ってしまう。のかな。

一緒になって適度な距離感が合わなくなったら完全に離れてしまうものなのかな。

もう一度お互いの心地いい距離感に戻ることはできないのかな。

そう考えてしまうと、付き合う段階で、一緒にいることを選ぶ段階で

その人を失う可能性まで考えて一緒になる必要があるのかな。

そんなことなんて考えなくていいのかな。

失うくらいなら、一緒になるって選択肢はなくなるのかな?

最後の最後には嫌いで終わってしまうなんて、なんとも複雑な。

そんなはずではないよな。

好きって気持ちはずっとあったもん。

人間としては好きなのに、こんな終わり方でいいのかな。

全部はなす。

話してしまおう。

もう、隠すことは何もない。

全部崩れ去ってしまう。それは自分が招いたこと。

全ての出来事が自分の責任。

どう転んでも、自分にできることはやる。