コーヒーを淹れる時間

コーヒー豆を手動て挽いて、ドリップしてみる。

あえて、ほんの少しだけ手間を加えて丁寧に淹れる。

時間とか計ったり豆の量を細かく計ったりはせずに、感覚だけで淹れてみる。

生活や、仕事をしていると時間の効率とか、手間を省くことが大事だと言われるので、あえてゆっくりやってみる。

自分の中の時間のバランスを整えることによってどこか狂ってしまいがちな自分のリズムを整えてくれる。

ひとりで過ごす時間

行きたいところに行けて、

止まりたいところで止まって、

好きなだけみて、感じて、ぐるぐるまわってもいいし、

気が済むまで眺めていられるし、

楽しむだけ楽しんだら、自分の変化を感じることができる。

たまには、友達からの誘いを断って1人で遊んでみるのも

いいかもしれない。

あっという間に1日は終わらない

やりたいことが何もなかったとき、休みはあっという間に過ぎ去っていく。

あれ、今日何したっけ?って1日が終わってしまう。

だけど、あっという間に1日は終わらない。

1日のうちに、できることがたくさんではなくていいかもしれないけど、

あれもできる、これもできる、それまでできる。

やりたいことがあって、熱中してできれば時間はいくらでも増やすことができる。1日があっという間に過ぎてしまうと嘆いている人の近くにいると、自分も同じように過ごしていることに気づけない。

1日に、何個も予定をこなしながら溌剌としている人と一緒にいることで、1日の濃密度合いはこれほどまでに違うのかと驚愕する。

もし、たくさんの予定をこなしている人が幸いにも近くにいる人は丸一日一緒に過ごしてほしい。どれほど刺激的で、ワクワクして、人生が楽しくなるのか実感できるから。

1日があっという間と思って生きていくのと、

1日を濃密に生ききるのと。

自分はどちらを選びたいか。

時間というなのボーナス

ニートは時間というボーナスタイムが大幅に付与される。笑

幼少期以降は、何もない1日ってない気がする。

幼稚園や保育園に通い、みんなと遊んだりする

小学校から高校までは、平日は学校があり土日はある人は部活がある

大学や専門学校では、同じく平日は学校があり土日はアルバイトや部活がある

そのまま就職した人、卒業してから就職してからは、おおよそ週休二日で仕事がある。

振り返ってみると、一日中自由に時間を使えて、かつ平日も休日も関係がないってことを経験してきていない。

教育課程の中で、平日と呼ばれている5日間は必ず学校があり、

休日と呼ばれる土日祝は学校はない。

それが生まれてきてから、約20代半ばまで続いているので、

必然的に、仕事でも同じような日程で運営されていることに特に疑問を抱くことはなかった。

職種によっては変わってくると思うが、多くの人が平日は働き、休日は日頃働いている分休んだり、リフレッシュに充てている。

今までは、仕事をしていたので平日に出かけると言うことはなかった。仕事を辞めて平日に行動してみると道も空いていて、お店は混雑していなくて、とても静かである。

対して休日はご存知の通り、道は混んでいるは、渋滞でイライラして運転が荒くなるは、お店は混雑しているは、、、

別に、小さい頃から休日に出かけることはあったしどれだけ混雑していようが、関係はなかった。混んでるなーくらい。

どこへいくにも、時間がかかり、人が多くてストレスがたまる。土日祝がおやすみであるメリットは誰にあるんだろう。確かに、セールが開催されたり、期間限定商品があったり、休日ならではのイベントごとは開催しやすくなると思う。集客という意味では、休日はなくてはならない存在だ。

だけど、同じことを時間も少なく、ストレスもなく、快適に過ごすという意味では、土日祝日の休日は多くの人にとって意味はあるのかな。。

これだけたくさんの人が、休日を利用して各地に出かけたり買い物を楽しんでいるけど、その人たちが失っている時間はどれほどになるだろう。失っているという表現は、その時間自体が楽しいものであれば正しい表現ではないだろうけど、失っていると同じだと思う。

今までの自分はいろんなことを時間がないからできないとずっと思っていた。したいんだけど、時間がないんだよねーって。

自分の普段の生活を一つ一つ書きだしたり、表を作ったりしてみるとびっくりするくらいに時間がある。1日だけでも何時間でも本来は生み出せる時間なのに、消費してしまっている。もちろん、土日祝日の移動もしかり。道が混んでいなければ、2時間で行ける行程を3時間も4時間もかけてしまっている。

そこから到着して、遊んで、帰る頃にはヘトヘトである。

そして、日曜日が来て仕事か。。。ってなるのはどうもおかしい。

仕事をしているときは、こんなことを考えたこともなかったけど、ふと落ち着いて考えてみたら不思議なことだよなーっと。

だからと言って、急に仕事を辞めて自由になったりすることはいいこととは言えないけど、当たり前のことではないよなーって。

時間は死ぬまでしかない。いつ死ぬかもわからない。そんなときに、自分の時間は渋滞や、混雑していることに使うのか。

それとも、一歩抜け出してなにか別のことに使えるのか。

自分はどっちがいいかなー。

嫌いという感情

嫌いという感情を捨ててしまうと、1日が長くなった。

嫌いなことを考えている時間は、何も生み出さない代わりに自分自身のエネルギーをとっっっっても奪い去ってしまう。

時間はみんな平等に、1日24時間365日与えられているのに、その貴重な時間をマイナスなことに使ってしまっていては、人生なんなんだろうってなっちゃいそう。。

嫌いなことでも、ものでも、人でも、なんでも。

感情を押し殺して、嫌いな感情をなかったことにするのとは違って、

はい、これ、嫌い。以上

それだけでいい気がする。上だったら1秒くらいで終わり。

これが嫌い、なんでこれはこうなんだー、こうじゃないんだー、

しかもこれってこうだから、こんなこともあったなー、、、

一度出てくれば、とめどなく出てくるこの感情はなんなんだろうと思ってしまうほど、マイナスの感情は丁寧に扱わないと、大量放出されてしまう。

この思考がぐるぐるぐるぐるずっと自分を縛ってくるものだから、困ったもの。

はい、これ、嫌い。以上

って考えてみるようになってからは、1日ってこんなに時間あるんだなーって身をもって実感すると同時に、自分はいままでこんなにたくさんの時間を楽しいことやワクワクすることではなくて、嫌いなことばかりを考えていたんだなって振り返るとゾッとする。

嫌いって感情を押し殺すのではなく、自分がそう思っていることはちゃんとキャッチするけど深追いはしない。はいオッケーって流してあげる。その後に、好きなことや楽しいことを思い浮かべてみる。

嫌いをポイっと。

自分の周りにいる人が、嫌いな感情に囚われていて

その感情を発散するために、愚痴やそういう話をされるときは自分自身にもなにか同じようなことあるのかもしれない。

そのまま、話に付き合ってもいいし、そっと離れていくことも自由。あとはその人自身の生き方の問題。自分の命をどう扱うか。

思いつき

自分の意見をいうことはわがままだと思っていた。

こうしたいと思うのはわがままだと思っていた。

小さい頃に、自分の意見をいうこと

こうしたいを出すことによって煙たがられた。

今考えれば、伝え方がわるかったり、相手のことを考えずに発言してしまっていた。

だけど、意見を考えること、こうしたいをずっとよくないことだと頭で考え続けていると、大人になったときに出てこなくなる。

一つの物事に対して、思うことがなくなってしまう。

こう言ったら、こう思われるんじゃないか、

あんまり気乗りがしなくても、まぁいいやと流してしまう

そのまま、自分を失ってしまう。

なにか、意見あると聞かれてもない。としか答えられない。

どうでもいいと思うことが増えていく。

人に判断を投げてしまえば楽ではあるけど、

自分で納得して選んでいくのと、人の選択を受け入れていく人生だったら、

心の健康度合いは大きく変わってくる。

目先の楽を優先して、他人の選択を受け入れることは将来的には必ず自分自身を苦しめることになる。自分で選んでないからどうでもいいやって感情が生まれてしまう。

その瞬間は苦しくても、自分自身で何が必要なのか考えてみて自分だけが納得できるように選択をしていく。

そこから逃げている限り、人生は好転しない気がする。

と、身をもって感じた。

思いつき

だれかよりも

誰かよりも頑張ることは努力とはいわない。

昨日の自分よりもよくなるようにすること。

それをどんな時でも続けていくこと。

人が10がんばってても同じことを10しても同じ結果は出ない。

人が右に10がんばっているときに、上に1でもいくことができればそれも努力になる。

人の指標で努力すると自分自身でもよくわからない方向にいってしまう。

誰かの成功法則も勉強にはなるけど、自分自身に役立てるためには同じことをするよりも、自分なりに噛み砕いてオリジナルに変換していくこと。