楽しく過ごすこと

アルバイトの途中で、小学生のお子さんと遊んでいたらお母さんに感謝されて大好きなタルトをいただきました。

自分にとってはなんの苦なくできることなのに、それでこんなに感謝されるのって嬉しいことだなーって心から思えた。

自分には何もできないって思うこともたくさんあったけど、そう思う人ほど気づいていないだけで、極端に他の人よりもできることがある。

本によく、いくらやっても苦しくならないことを仕事にって書かれていることがあるけど、今まではイマイチそんなもんあるかーいって。正直思ってたけど、時間か、タイミングかふらーっとその時がやってくるんだろうなー。

ただ、なんとなく生きていても

良いことや、楽しいことは向こうからやってくる。

いろんな目標を持っていろんなことにチャレンジして貪欲になっていくこともいいと思うけど、

流れに身を任せて、焦らずゆっくり、のんびりだらだら進んでいってもいい気がする。目標なんかなくても、夢がなくても楽しむってことだけを忘れなければ。

あとは、人それぞれの進み方で素敵なそれぞれのくうかんができあがっていく。

本を読む時に気をつけること

自分の本質を見失わないこと

たくさん、いろんな考えに触れると影響を受け過ぎてしまう

自分よりもすごい人たちが書いていることだから、自分もそうありたいとか

そうあらなければならない。書いてあることと違う自分が恥ずかしくなることもあるけど、自分の本質とズレたところで見習ってみてもうまくいかないことがある。

書いてあることをそのまま鵜呑みにしてしまっては、書いた人にとってはそれが正解だったかもしれないけど、それを自分自身に同じように当てはまるはずがない。いろんな考えに触れて、最終的には自分自身がどう感じて、どう行動していくかは自分で考えなくてはいけない。

自分なりに噛み砕いて、反芻して、自分の型に合うように変換することで初めて変化が生まれてくると思う。

たくさん参考にして、行動するのは大切だけどその中で自分の本質からずれていないか常にチェックしていくこと。本質とズレたところをでどれだけ力を込めても目指すところには届かなくなってしまうから。

どんなときでも、自分が一番大切。どんな考え方であっても、自分の本質を大切にして。

自由なのに自分自身で縛っていた

本来、人間はどんなことからも自由なのに自分自身でいろんなしがらみをつくっていた。

今の自分を振り返った時に縛られるのが嫌で、いろんなことから離れて自由を手に入れようとしているはずなのに、逆にこうあるべき、こうあらなければいけないと思ってしまい、身動きが取れなくなっていた。

このことは、衝撃的な気づきだった。全ては自分の責任、目の前に起こることは自分自身が選択してきたことだとようやく理解できてきたところだった。

今までは、環境のせいや誰かのせいにしてきてそれではいけないと思い、考えを改めてきたつもりだった。それが、よくよく振り返ってみると自分が一番なりたくないと思っていた思考になっていた。。

今、すでに何事からも自由なのに自分で自分を縛って動けなくして、現状のままを見て見ぬふりようしようとしていた。場所や時間、周りの環境を変えてその都度自分と向き合ってふとその気づきを得ることができた。

今は、仕事をしていないので1日の全てが自分の時間としてある。何かをすることも、何もしないことも全てが自分の思い通りになるはずだ。そんな状況にもかかわらず、今までの自分の中の理想や、妄想に囚われてしまっていた。たくさん時間をかけて自分と向かい合って問いかけてきたつもりだったけど、また振り出しに戻った気分だった。

一見、堂々巡りのように感じるけどたくさん、たくさんぐるぐる回ることは昔はいけないことで、なんの変化も成長もないと考えてきたけど、

ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる回っていたら回っている場所から遠心力でポイって外に出れるんじゃないかなー。中途半端にぐるぐるするからずっとその考え方や価値観から抜け出せなくて。極端にぐるぐるしてしまえばまた新しい世界まで飛んでいける。考えれば考えるほどその瞬間は負荷がかかるし、苦しいし、もやもやイライラすることもあるけど、そのぶんたくさん勢いづいてぴょーーーーんって飛んでいける。

環境や、人間関係の縛りから外れたら最後の最後に残っていたのは自分自身の縛りだった。

あと少し。もうここまでこれたんだから。

今は、どれだけ時間がかかっても一日中自分のことだけを考えることができる幸せな環境にいる。だからこそ、たくさんのことに感謝しながら、丁寧に自分の時間を生きていく。

全てのことに当たり前はないし、どれも奇跡的なことの連続である反面、すべてを当たり前のことだと思うことによって、当たり前を疑って新しい発見を得ることもできる。

当たり前じゃないことを感謝しながら生きるのもよし、当たり前に思った後に、もう一度疑って見て本質までたどり着くまで考えるのもよし。

どちらにしても、どちらを選んでも、自由。

そのことを心に留めて、もう一度自分と会話してみようとおもう。

健康について

健康であることがどれだけ大切なことか、まだまだ認識されていない部分が多いと思う。

怪我をしたり、病気になってから初めてなんの問題もなく動けていること、普段どうり生活できることがどれだけ幸せなことか気づくことができる。

それが、身体の問題であれば薬や時間が経てば回復する。

だけど、心の健康は薬でも、時間が経っても回復はしない。

心の健康はだれも守ってくれないから、自分で守らなきゃ

ひとりのじかん

ひとりの時間を過ごしている時に、ふと今まで過ごしてきたことや、将来のことについて考えてしまう。

今生きていて、それだけで幸せなことなのに

違うことに心を囚われてしまう。

過去を振り返ることも大切だし、将来のことについて考えることも必要なこと。

立ち止まってみて、今の自分が何を感じて

何に感動して、何を嬉しいと思うか。

意識して今を生きないと、本来の自分を見失ってしまう。社会で生きていく以上、何かしらの人と常に関わりながら生きている。

その中で、今を丁寧に生きている人はどれだけいるんだろう。誰かに流されたり、自分の本音とは違うことをしてしまったり、言ってしまったり。

本音で生きることは、時に人を傷つける。本音で生きることはいいことだと信じてきたけど、自分の本音が誰かを傷つけることがあるってことを理解していないと、傷つけることに悩んでしまう。傷つけたくないから、また過去の自分に戻って誰かの意見に従ってしまう。

でも、それを乗り越えて誰かを傷つけることになったとしても、そんな自分であることを許してあげるためには、悩んで時には苦しい思いをしながらも続けていくこと。

大切な人と離れることもあるかもしれないし、人間関係が壊れることもあるかもしれない。自分の変化についていけずに戸惑うかもしれない。

そうやって乗り越えた先に、また新しい出会いがあって縁が生まれていく。

自分の変化は捉えづらい部分があるけど、一番は周りにいる人の変化が分かりやすい。同じ人と同じ関係をずっと続けるのも美しいかもしれないけど、それはある意味自分自身が変化していない証拠。

自分も相手も変わらないような関係性ではなく、自分も相手も変化して、その時その時に必要な時間や関係を構築できればいい。

嬉しさも幸せも全部受け取る。その途中に起こる出来事も全部受け取る。

久々の体調不良

半年ぶりくらいの体調悪化。

最近は調子良く、元気に過ごしていると思っていたけどここにきて、ウイルス性の胃腸炎。。。

体調崩してみて思うことは、いかに健康であるだけで毎日が幸せであるということに気づくことができる。

体調悪くなると、楽しいことを楽しめなくなるしせっかくのチャンスを逃してしまう。自分自身が、どれだけ気をつけて普段の生活をできるかどうかに関わってくる。

あとは、自分の疲れ具合を正確に把握すること。自分の中では元気だと思っていても身体は疲れが溜まっていて。身体の声を聞いてあげないと、体調不良が長引いたり、普段はかからないような病気にかかったりしてしまう。

環境の変化や、ささいなストレスなど知らず知らずのうちに溜まっていて、気づいた時には手遅れってことが多いような気がする。

知らず知らずのうちに疲れていて、判断が鈍って後悔するような選択をしてしまったり、できるはずのことができなくなってしまう。

常に、動きまわりたくなるような気持ちをほんの少し抑えて自分の身体や心の声を聞いてみる。

そうすると、

普段健康に過ごせているだけでもどれだけ幸せなことなのかを知ることができる。

ゆっくり、休めてあげよう。

実家からの帰り道

実家に1日以上帰ったのは何年ぶりだろう。

大学進学を機に地元を離れて約10年。

実家でゆっくり過ごせなくなったのはなんでだったのか。

自分の中で、落ち着いて考えて気を遣わずに自由に過ごせるのは一人でいることだと思っていた。何にも縛られず、ただ自分の好きなことをできる状態。

何もしていない時間に対して(テレビを見たり、ただごろごろすること)特になんとも思っていないと思ってた。

でも、今回実家で過ごしてみてどうも何もしないことを恐れている。この時間に何か意味を付け加えようとして、本を読んでみたり、携帯を触ってみたり、はしったり、トレーニングしたり。

好きでやっているつもりだったけど、どうも心の中の何かを埋めたい。そんな心理が働いていることに気づくことができた。

やればやるほど、充実感とともにどこかにできる心のすきま。家族からの愛を素直に受け取ることができず、天邪鬼に対応してしまう。そんな自分が恥ずかしくて素直に感謝の気持ちを伝えたいのに。できない自分が嫌になって。家族も含めてたくさんの人から愛されていて、幸せな自分が簡単に幸せになってはいけないとまだどこかで思っているのかもしれない。

少しずつではあるけど、自分にいろんなことを許してきて。そう思っていた時間が長かったからもう少し時間がかかるのかもしれない。表面的には一時的には変わっても根本的な部分はもう少し。今の感情から逃げることなく、立ち向かう。いろいろ書きながら思うことは、

どこかに、寂しいという気持ちが潜んでいるということ。

本当はみんなと一緒にいたい。たくさん愛されたい。愛されている実感、変に取り繕うことなく自分が自分のままでいいという安心感を一番求めている。

ここに、帰ってきていいんだよって感覚。どんなに無様でも、打ちのめされても、何かをしても、しなくてもどんな自分であっても受け入れてもらえて、包み込んでもらえるそんな感覚。

いろんなことがあって、自分の中でまだまだ整理できなくて。

今までなら答えを出さずにそのままにしてたけど、今の自分が出す答えを受け入れて時期が来ればまた考えればいい。

そんなことを考えながら帰りの電車で泣くことはこの先はないだろう。電車にはたくさんの人がいるけど、一人で考えるには寂しさも少し紛らわせていいのかもしれない。

ひさびさに正月のんびり

お正月に実家に帰ってのんびりしているのは、

いつぶりだろう。

今までずっと、実家にゆっくり帰ることを

避けてきたというか、

居心地が悪かったけど、今年は落ち着いたのかな?

自分のやりたいことが徐々に決まってきたからかな?

自分の居場所が決まってきたからかな?

家族の存在について考えて、

今まで知らなかった家族の構成や、祖先の話とか。

今の歳になってもまだまだ知らないことってたくさんあるんだなーって。

今のタイミングで知ったことにも意味があるんだろうし、

今完全に自由の状態になって、これからの家族のことも考えるきっかけになったかなー。

親は親の人生があって、自分は自分の人生があって。

新しい生き方をしていいことを自分自身に許してあげること。

親戚の集まり

親戚の集まりってなんなんだろう。

ひさびさに会って、近況を話して。

年末年始の過ごし方って、人それぞれだし、

たぶん、仕事を続けていたらこの年末はゆっくり過ごすために、自分を回復させるために

そんな時間に当ててたのかもしれない。

でも、たくさん休んで自分の時間をしっかり保っていて、

そうなってくると、毎日に同じだけ意味があって、特別な日もなければ、特別な時間もない。

誕生日でも、クリスマスでも、お正月でも、何もない日でも、同じように過ごす。

特別な日を作り出すのではなく、同じように淡々と過ごしていく。

その先に、何を見つめているのか。

周りに流されることなく、自分の道はどこなのか。

2019年

夏ぶりに、実家に帰省。

久しぶりに、電車に揺られながら帰ってきた。

今までの実家に帰ってくるときは、

落ち着けなくて、帰るのが嫌だった時もあるけど、

今回は落ち着いて帰ることができた。

電車で落ち着いて考えることができたから?

新しい心境になったから?

自分の考え方が変わったから?

まだ、整理できてないし納得がいく回答が見つかったわけではないけど、

今の変化を受け入れてみよう。

仕事を辞めて、時間が経って

少しづつ帰るのが怖かった時期もあった。

無職である自分、仕事を探していない状態の自分、

いい自分であろうとしていた自分がいたから、

返りにくかったのかな?

何もしていない自分を受け入れてもらえるかわからなくて、

でも、そんなことは自分の思い込みだった。

病気で辞めたわけではない、自分の都合。

耐えきれなかったといえば、耐えきれなかった。

我慢?しようと思えばできたかもしれない。

そう思うと、あの時自分の弱わさを受け入れて

弱くていいじゃないと自分を許すことができて

よかったなーと思う。

2019年が終わって。2020年が始まって

何しても苦しかったし、何しなくても苦しかった。

けど、そんな期間があったからこそ今の自分があって、

これからの自分がある。

少しづつ、新しい自分との向き合い方を

掴んでいく。

まだまだ時間がかかってもいいから。

今までの自分。

何かを取り繕った自分ではなく、

何かあっても、自分の責任においてどんなことにもチャレンジできる、

心を失わない。迷っても自分自身で決めることができる、

しなやかな身体と心で、どんなことにも立ち向かっていく。