子供のころに苦手だったものは 不真面目なこと編

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自分に対しての恐れと「真面目さ」のレッテル

自分が抱える恐れは、「真面目にしていれば危険から逃れられる」という考え方に根ざしていました。真面目であれば、何かを言われることもなく、ストレスを回避できると信じていました。その結果、自分に対しても他者に対しても「こうしなきゃダメ」という押しつけが生まれ、先生的な立場で他人を守ろうとしていたのかもしれません。一方で、真面目さが自分を守る一方で、一人で立ち向かう恐怖から逃れる手段でもありました。

見返りへの期待とストレス

嫌なことを我慢してやる分、当然の見返りを期待してしまい、それが得られないと「何のために頑張っているんだろう」と思ってしまう。これが自分の心を荒ませてしまい、我慢の積み重ねが逆に自分に負担をかけていることに気づく。誰かの機嫌を取りながら行動することがうまくいかない理由でもあります。自分の行動を他者に合わせると、自分の時間を犠牲にしてしまい、その結果、割に合わないと感じてしまうのです。

「しないと決める」選択

嫌なことを「したくない」と思いながら行動するのではなく、「しないと決める」ことが重要だと気づく。したくないことを避けるのではなく、意志を持ってやらないと決めることで、無駄なストレスを避け、同じことを繰り返さずに済む。これは自分の自由な選択であり、決断の自由が自分の中にあることを認識することが大切です。

環境と人間関係の見直し

現在の環境や人間関係が、本当に必要なものかどうかを天秤にかけて判断する。長く続けている関係でも、無理に維持しなくてもいい場合もある。物を断捨離するように、人間関係も考え直し、必要のないものは無理に維持せず、より自分に合ったものを選び取ることが大切です。群れやグループに属する安心感もあるが、それがなくても生きていけるかどうかを考える必要があります。

所属と自己の確立

何かに所属すると、その一部として見られることになりますが、集団から離れることに不安を感じることもあります。ですが、軽い気持ちで集団に入ったり断ったりしても問題はありません。自分に対して正直になることを許し、結果として何かが変わったとしても、それは自分が望んだ体験なら大丈夫だと信じることが大切です。

自己エネルギーの放出と計画的な行動

現在、自分のエネルギーが外に漏れてしまっているような感覚があり、限界が来る前に計画的に動く必要があると感じています。同じような感覚になることがあるかもしれませんが、そのときに備えて、自分を守りながら前向きに計画を立てていくことが重要です。

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不真面目なこと

これも、自分に対しての恐れ。まじめにしていれば自分を危険から守ることができるから。何かを言われることもないし、余計なストレスを抱える必要もない。そして、まじめだからいうレッテルがあれば大概のことは問題なく進んでいく。

そしてそれを、他の誰かにもそうしなきゃダメ!みたいな押しつけもしていた。どちらかというと、ちょっとした先生!みたいな。困らせちゃダメとか、そうしておけば守ってもらえるって思ってたのかもしれない。

自分一人で立ち向かうことが怖かったから、守ってほしかったんだろう。一人じゃない安心感が欲しくて。でも、そういうときに限って一見不真面目に見えることでも先生もみかただったりして。

自分の中では、したくないことを我慢して行動を変えているからこそその見返りがないと何やってるんだろうって気持ちが強まってしまう。我慢してるんだからそれ相応の得られるものを期待してしまうんだろう。

頑張ったのに、なんやねんは本当に自分の心を荒んでしまう。。

嫌われないように振舞うこと。前回の学校編でも書いたけど誰かしらの機嫌を取りながらではうまくいくこともうまくいかなくなってしまう。

自分は自分のふるまいをして、誰かも同じように。誰かの好きなようにやっていて。割に合わないとすごく感じてしまう。自分で自分の時間を守ってあげて、欲しい体験、望んでいる体験を明確にすること。

あれと、これをしたくないよりも、しないと決める。

そうだね、したくないではどっかのタイミングとか何かのきっかけですることになってしまうから。

そしてしたくないが、叶い続ける限りずっと同じことが繰り返されてしまう。

だから、しないと決める。決めるのは自由。

その事由が叶う場所は自分で作るしか道がない。

なんだかんだ、根はまじめなんだろうな。真面目というか、生きることに一生懸命。

同じ環境にいることによって、得られる何かを考えることも必要。それと同時に失っているものがあることを認識して天秤にかけて判断する。

今と同じ環境や、人間関係はいつまでも持っていたいものなのか。何となくの惰性で続けているものも多いんじゃないかな??その関係性を無くさなくても問題ないし、無くしても問題ない。

そう考えると、断捨離も同じことが言える。

ものに対しても、あってもいいし、なくてもいい。捨てたり処分したり向き合うことに抵抗があるからそのものはそのままになっている。

物を捨てることによって、大切にすることが明確になるように何となくの人間関係もよくよく考えた方がいい。それを使用と考える人も少ないし、ましてやそれを行動に移す人はもっと少ない。

群れ、グループ、同じような人間が集まることによって得られる一時的な安心感と、団結感。それがなくては生きていけないのか、なくても生きていけるのか。

色んな人の考え方が入ってこなくて、影響されなくて、自分が自分の感覚を信じて排除も何もするとかではなくてはい、これが私っていう状態を感じることができた。

何かに所属することは、その一部として見られる。その集団から離れることは不安もあるし、所属する安心感も捨てることになる。むこうも、軽い感じできてるだけだからそれに付き合う必要もないし、こっちも軽い感じで断ってOK。一つ一つを重くしすぎないで軽やかに判断しても大丈夫。

自分に対して、自分に正直になることを許してあげる。その結果として何かが変わったとしてもその体験も望んでやったことなら大丈夫。

正直になった結果起こることは、より自分が自分であるために必要なことだから。

すごくすごく、エネルギーが駄々洩れになっているような感覚。自分の中でとどまらずにどこいっちゃうのーっみたいな。

同じような感覚になることってあるのかな?いよいよ、限界が来る前に計画的に動いておこう。